「令和」と書かれた色紙が掲げられた瞬間を、覚えている方は多いはずです。
テレビの前で足を止めた記憶。
あの1枚が世に出るまでには、法律と行政手続きの積み重ねがありました。
けれど、その手順を最初から最後まで説明できる人は、どれくらいいるでしょうか。
私も改めて条文を迴い直してみて、元号を定める法律そのものが驚くほど短いという事実に行き当たりました。
元号法に書いてあるのは、たった2行
元号のルールを定めているのは、昭和54年に成立した元号法です。
条文の本則は、次の2項しかありません。
- 元号は、政令で定める。
- 元号は、皇位の継承があつた場合に限り改める。
附則を足しても、全文はおよそ100字。
条文そのものはe-Gov法令検索の元号法で読めます。
「政令で定める」の一言が意味すること
短い条文の中で、いちばん効いているのが「政令で定める」という部分です。
政令は内閣が定める命令なので、新しい元号の決定に国会の議決は必要ありません。
法律の名前だけ聞くと選定の基準まで書いてありそうですが、中身は決定の主体と改元の条件を示すだけに留まっています。
選び方の細部は、法律の外へ追い出された形。
読み方は政令ではなく告示で定める
政令が決めるのは漢字の並びだけ、という点も見落とされがちです。
「令和」を「れいわ」と読むことは、元号の読み方に関する内閣告示(平成31年内閣告示第1号)という別の文書で定められました。
平成のときも同じ形で、昭和64年内閣告示第6号が「へいせい」と読み方を示しています。
これらの一次資料をまとめて置いているのが、内閣府の「元号について」というページ。
法律ができたのは昭和54年、それ以前は空白だった
元号そのものは大化から続く長い制度ですが、法律の裏づけを得たのはごく最近のこと。
天皇の在位中は元号を変えないという一世一元の原則は、明治元年の「改元ノ詔」で定まりました。
大正や昭和への改元は、当時の旧皇室典範と登極令に沿って行われ、元号を決めるのは皇室の役割。
ところが昭和22年に現在の皇室典範が制定されたとき、元号に関する規定はきれいに消えていました。
法的な根拠が無いまま「昭和」だけが使われ続ける状態が、30年以上も続いたわけです。
この空白を埋めたのが、昭和54年の元号法。
一連の経緯は国立公文書館ニュースの「あの日の公文書」に写真つきで整理されています。
新しい元号はどうやって選ばれるのか
では肝心の「誰がどう候補を出すのか」はどこに書いてあるのか。
答えは法律の外にあり、昭和54年10月23日に閣議報告された「元号選定手続について」という文書が担っています。
手順を法律に書き込まず、行政の内規へ委ねた形。
考案は数名に委嘱され、1人あたり2〜5案
まず内閣総理大臣が、高い識見を持つ人を若干名選び、候補名の考案を委嘱します。
各考案者に求められるのは、2つから5つの候補名。
しかも候補名には、意味と典拠の説明を添える決まりです。
つまり漢字を思いつきで並べるのではなく、古典のどこから採ったかまでセットで提出させる仕組み。
令和が万葉集の梅花の歌の序文から採られたとすぐに説明できたのも、この「典拠を付ける」手順があってこそでしょう。
「漢字2字」を含む条件が候補を絞る
候補名には、いくつもの留意事項が課されています。
- 国民の理想としてふさわしい良い意味を持つ
- 漢字2字である
- 書きやすい
- 読みやすい
- これまでに元号や、おくり名として用いられていない
- 俗用されていない
「書きやすい」「読みやすい」が正面から条件に入っているところに、日常で書き、日常で読む文字であることを最優先した設計が透けて見えるのです。
由緒ある難読漢字より、子どもが書ける2文字。
そう考えると、歴代の元号に見慣れた字が多い理由にも納得がいきます。
原案から閣議決定までの経路
候補が出そろってからは、絞り込みの工程。
内閣官房長官が各界の有識者を集めて懇談会を開き、新元号の原案について意見を求めます。
その結果を受けて内閣総理大臣が衆議院・参議院の議長と副議長へ意見を伺い、全閣僚会議での協議に進むという段取り。
最後に閣議で改元の政令を決定して、ようやく発表へ至ります。
候補名が途中で漏れてしまえば、その候補は使えなくなり、手順そのものをやり直す羽目になりかねません。
発表のタイミングが平成と令和で違った理由
同じ手順を踏んでいるのに、平成と令和では発表から施行までの間隔がまるで違いました。
分かれ目は、皇位の継承がいつ起きるかを前もって知れたかどうかにあります。
平成は崩御の当日に決まった
昭和から平成への改元は、待ったなしの状況で行われました。
皇室典範第4条は、天皇が崩じたときは皇嗣が直ちに即位すると定めています。
つまり皇位の継承は、事前に日取りを決められない出来事でした。
昭和天皇が崩御した昭和64年1月7日、その日のうちに「元号を改める政令」(昭和64年政令第1号)が公布され、翌1月8日から平成が始まりました。
準備期間は、ほぼゼロ。
令和は約1か月の助走を取れた
平成から令和への改元は、皇位の継承日が法律で先に決まっていた点が決定的に違います。
天皇の退位等に関する皇室典範特例法により、平成31年4月30日限りで天皇が退位することが定められました。
そのため新元号の政令は平成31年4月1日に公布でき、施行は特例法施行日の翌日、つまり5月1日。
発表から施行まで1か月の周知期間を確保できたのは、継承の日が先に確定していたからにほかなりません。
システム改修や書類の刷り直しを抱える現場からすると、この1か月の差はとてつもなく大きい。
改元しても法令の「平成◯年」は書き換えない
改元にまつわる実務で、私がいちばん意外に感じたのがここです。
政府の申合せでは、改元だけを理由にした法令の改正は行わないという方針が取られています。
例えば大阪・関西万博は、法令上「平成三十七年に開催される国際博覧会」と書かれたままでした。
平成三十七年が令和7年を指すことは解釈上明らかなので、条文を1本ずつ迴いかけて直す必要はない、という整理。
実際には、別の理由で改正する機会に合わせて表記も直します。
構造改革特別区域法の改正では、実質的な改正のついでに「平成三十四年」が「令和四年」へ書き換えられました。
この扱いの詳細は、参議院法制局のコラム「改元とそれに伴う法律改正について」が読みやすくまとまっています。
最後に
元号の決め方を迴いかけてみると、法律・閣議報告・政令・告示という4種類の文書が役割を分け合っていると分かりました。
法律は「誰が決めるか」だけを引き受け、選び方の細部は行政の手続きが担い、最後に政令が決定を形にする。
短い法律と厚い運用手続きの組み合わせが、元号という制度を支えています。
次の改元がいつになるかは分かりません。
それでも、色紙が掲げられる瞬間の裏側にこの積み重ねがあると知っておくと、ニュースの見え方は少し変わるはず。
以上です。













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