プロ野球の歴史を振り返る記事で、必ずと言っていいほど名前の挙がる事件があります。
「黒い霧事件」。
響きだけは知っていても、いつ何が起きて、誰がどうなったのかまで順番に説明できる人は多くないはず。
私も長らく「昔、八百長があったらしい」という程度の理解で止まっていました。
しかし調べ直してみると、これは一過性のスキャンダルではなく、プロ野球が選手を裁くルールそのものを作り替えた分岐点だったと分かってきます。
名前だけ知っている歴史の事件を、一度ちゃんと時系列で並べ直してみたくなったことはありませんか。
黒い霧事件とは何だったのか

黒い霧事件とは、1969年から1971年にかけて相次いで発覚した、プロ野球選手による八百長を中心とした一連の不祥事の総称を指します。
八百長は当時「敗退行為」と呼ばれました。
そもそも「黒い霧」という言葉自体、野球から生まれたものではありません。
出どころは松本清張が1960年に発表したノンフィクション『日本の黒い霧』で、背後に隠れた不正を霧にたとえた表現が当時の流行語になりました。
発覚のきっかけは、外国人選手のひと言
1969年、西鉄ライオンズの球団上層部は自軍の選手が八百長をしているのではないかと疑い、極秘に調査を始めます。
同じころ、主力打者のカール・ボレスが試合後に報知新聞の記者へ「ウチにわざとエラーする選手がいる」と漏らしました。
報知新聞は読売新聞社会部と組んで取材を進め、投手・永易将之が暴力団関係者の依頼で敗退行為に及んでいた事実が浮かび上がります。
選手を守るはずの球団が、自軍の選手を疑って内偵するという異様な構図。
そして1969年11月28日、コミッショナー委員会は永易に永久追放の処分を下しました。
プロ野球界で初めての永久追放です。
国会という、予想外の舞台へ
事件が球界の外へ飛び出したのは翌1970年でした。
3月の国会で「永易投手は暴力団関係者に軟禁されているのではないか」という質疑が飛び出し、警察庁刑事局長が捜索を約束するに至ります。
4月10日、永易本人が衆議院第二議員会館の会議室で記者会見を開きました。
そこで関わった選手の実名と金額、さらに西鉄球団から口止め料を受け取って身を隠していた経緯までを次々に明かします。
球団による幕引きが、当事者の告発で裏返った瞬間。
同年5月25日、西鉄の6選手に対する処分が確定しました。
池永正明・与田順欣・益田昭雄の3選手が永久失格、村上公康・船田和英の2選手が1年間の野球活動禁止、基満男が厳重注意という内訳です。
なぜ処分は、あれほど重かったのか
ここが黒い霧事件でいちばん引っかかるところだと感じます。
永久失格を受けた池永正明は、1969年に18勝11敗・防御率2.57・263投球回を投げ切った西鉄のエースでした。
球団公式のヒストリーでも、稲尾和久と中西太の引退に続く「激震」としてこの事件が記されています。
1969年 中西、稲尾引退、そして球界に激震が走る(埼玉西武ライオンズ公式)
「やっていない」でも失格になる線引き
池永の処分理由として挙げられたのは、大きく三つでした。
依頼された金を受け取り、返さなかったこと。
八百長に勧誘された事実を、速やかに事務局へ通報しなかったこと。
そして1969年シーズン終盤に、短いイニングで降板した試合が2つあったこと。
本人は現金を預かった事実こそ認めたものの、八百長への関与は一貫して否定し続けます。
つまり「わざと負けた」と立証されたから失格になった、という単純な話ではないわけです。
勝敗が商品である以上、疑いそのものが損害になる
なぜそんな線引きになるのか。
プロスポーツが売っているのは、結果が誰にも分からないという一点に尽きます。
だから手を抜いたと証明し終えるまで待つ運用では、待つ間に商品価値が溶けるという事情がありました。
結果として制度は、内心ではなく手続きで線を引きます。
金を受け取ったか、返したか、報告したか。
外から検証できる行動だけを見て、グレーの段階で早く止めるという設計思想。
厳しすぎるようでいて、興行を守る側の理屈としては筋が通っていると腑に落ちました。
事件が球界に残したもの
処分が確定した後、影響は西鉄だけにとどまりませんでした。
中日のエース小川健太郎にはオートレースの八百長疑惑が浮上し、1970年5月2日の読売新聞の報道を受けて球団が自宅謹慎を命じます。
小川は5月6日に警視庁へ出頭し、小型自動車競走法違反の疑いで逮捕されました。
東映では選手が勧誘を受け、近鉄では球団職員が八百長を強要されていた事実も判明します。
ロッテにも疑いが向けられ、もはや特定球団の不祥事では済まない規模へ膨らみました。
消えた常勝球団
最も重い代償を払ったのは、やはり西鉄でした。
主力を一度に失ったチームは1970年から1972年まで3年連続で最下位に沈みます。
かつて日本シリーズを3連覇した「最強西鉄」の面影は、観客席の閑散とともに消えました。
1972年限りで西鉄は球団経営から撤退し、同年10月28日に福岡野球への売却が成立します。
翌1973年から太平洋クラブライオンズとして再出発することになりました。
35年後に開いた、復権の扉
物語には続きがあります。
2005年3月16日のオーナー会議で野球協約が改正され、永久失格者は15年、無期失格者は5年を経過すれば、本人の申請を受けてコミッショナーの判断で処分を解除できるようになりました。
同年4月25日、日本野球機構は池永正明の処分解除を発表します。
1970年の失格から35年を経ての復権でした。
罰の重さは変えないまま、時間の経過と本人の申請という条件で扉を開ける。
永久という言葉に、後から出口を作り直したという点が、この改正のいちばん面白いところだと感じます。
最後に
黒い霧事件は、暴力団と結びついた選手が処分された話として語られがちです。
けれど順番に並べ直すと、見えてくるのは別の輪郭でした。
信用そのものを商品にしている世界では、疑われた時点ですでに損害が発生している。
だから制度は内心を裁かず、金を返したか・報告したかという外から見える手続きで線を引きます。
同時に、一度引いた線を永久に固定しない仕組みも、35年かけて用意されました。
厳しさと出口をどう両立させるか、という古くて新しい問いが、この事件にはまだ残っている気がします。
以上です。










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